70~80年代前半にかけて、NWA(ナショナル・レスリング・アライアンス)は絶対的な権威をもっており、NWAの認定する世界ヘビー級王者は世界一のレスラーとして認められていました。
日本でも、日本プロレス時代からジャイアント馬場、アントニオ猪木らが何度も挑戦していましたが王座に就くことはできず、NWA世界ヘビー級のベルトを奪取することは悲願となっていました。
また、馬場との直接対決が時期尚早と判断され、猪木の日本プロレス追放(その後に馬場も離脱)で馬場との対戦が完全に実現不可能となっていた猪木にとって、馬場よりも先にNWA世界ヘビー級王座に就くことが馬場越えを意味し、何としても猪木はNWA世界ヘビー級王座戴冠を果たしたいと思っていたのです。
ただ、NWAに加盟している団体でしかNWA世界ヘビー級王座のタイトルマッチは行われないことから、猪木は新日本プロレスを設立した後、NWA加盟を申請します。
しかし、ジャイアント馬場の全日本プロレスが旗揚げ時から数か月後に加盟を認められており、NWAに加盟できるのは1つの地区に1プロモーターという理由から(日本は1つの地区として捉えられていました)、新日本プロレスは加盟を拒否されていました。
その後、ようやく新日本プロレスも1975年に加盟が認められますが、政治的な理由もあってNWA世界チャンピオンが新日本プロレスに参戦することはなく、もちろん猪木がNWA世界ヘビー級のベルトに挑戦することもできませんでした。
そんな中で、藤波辰巳がMSGでWWFジュニアヘビー級王座に就き凱旋帰国。日本国内にジュニアヘビー級のブームを巻き起こすことになります。そこでNWA世界ジュニアヘビー級王座に目を付けた新日本プロレスは、当時のNWA世界ジュニアヘビー級王者のネルソン・ロイヤルの引退を機に、反主流派のプロモーターと組んで空位となっていた王座決定トーナメントを開催し新王者を擁立。それを藤波が奪取し、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級タイトルとなります。
しかし、そのベルトも1981年に起こった引き抜き合戦で、新日本から全日本に引き抜かれたチャボ・ゲレロがベルトを持ったまま移籍という前代未聞の行動を起こし、新日本はNWAの冠の付いたジュニアヘビー級のタイトルを失うことになります。
そこで、NWA世界ジュニアヘビー級王座の管理権を持っていたプロモーターが引退したため、個人所有となり(勝手に)タイトルマッチを行っていた当時の王者レス・ソントンを新日本が招聘し、タイトルマッチを敢行。タイガーが勝利し、NWA世界ヘビー級王座を奪取します。
しかし、これをNWAのアジア支部長だった全日本プロレスの馬場が抗議。ライバル団体の新日本プロレスの強引なやり方を批判するのです。また、それに対して新日本プロレス側も「タイガーこそ正統のチャンピオンである」と反論します。
週刊ファイト 82年9月21日号 (新大阪新聞社)
週刊ファイト 82年9月28日号 (新大阪新聞社)
週刊ファイト 82年10月26日号 (新大阪新聞社)
ゴング誌では、このトラブルの経緯について、王座の系譜をたどりながら詳しく報じています。
WWFジュニアヘビー級タイトルに比べ、NWA世界ジュニアヘビー級タイトルの防衛戦がなかなか行われなかったことは後になって知りましたが(ベルト奪取後の3シリーズの間に行われたタイガー絡みのタイトルマッチはすべてWWFジュニア)、当時タイガーからプロレスファンとなり、専門紙(誌)を読んでおらず、基本的にテレビから情報を得ていた私は、NWAの権威やWWFとNWAの関係などは分からず、「タイガーがチャンピオンになった」「タイガーがタイトルを防衛した」ということが全てで、タイガーの強さへの憧れは変わりませんでした。