プロレス専門誌は、日本ポーツ出版社から「ゴング」「別冊ゴング」が、ベースボール・マガジン社からは「プロレス」「デラックスプロレス」が発刊されており、81年11月下旬に後発の立風書房による「ビッグレスラー」が発刊されてからは、1ヶ月に合計5誌が発刊されていました。
82年10月13日、ここに6冊目の専門誌、「別冊ビッグレスラー」が創刊されます。

立風書房からは「ビッグレスラー」が発刊されていましたが、月に1回ではページが足りなかったのでしょうか。それだけ記事になり得る話題が豊富だったと言えますが、発刊するからには売れなければしょうが無い中で、採算が見込まれると判断されたということはプロレスが魅力的なコンテンツだった、それだけ世間に浸透していたことがうかがえます。
表紙には、当時の両団体の絶対的なエースであったジャイアント馬場とアントニオ猪木の写真が使われています。

タイガーに関する試合レポートでいうと、9月21日大阪大会のブラック・タイガー戦が報じられています。

「FLY TIGER FLY‼」のコーナーでは、過去の写真を使いながらタイガーの華麗なムーブを紹介しています。




「レスラー血液型全調査」では、正体不明となっているためタイガーは「?」となっています。



「’82ベスト・バウト10」のコーナーでは1月から9月までの両団体を含めたベスト・バウトが10試合選ばれていますが、タイガーの試合が2試合選出されています。



8ページに渡る、タイガーへのロング・インタビューも掲載されています。




当初のIWGP構想では、日本で開幕戦を行い、全世界の主要都市を転戦しながら、決勝戦をニューヨークで行うというものでした。従ってその間は猪木が国内不在になってしまうことになります。そこで新日本プロレスは、タイガー人気によってジュニア戦線が活況を呈していることもあり、タイガーを中心としたジュニア選手によるリーグ戦「ジュニアヘビー級ワールドシリーズ」の開催を計画します。
ビッグレスラー誌では、その内容や、実現の可能性について報じています。



「必殺技大全集」のコーナーでは、ジャーマン・スープレックス・ホールドの使い手のベスト3の1人にタイガーが挙がっています。

新しく創刊された雑誌にタイガーに関する記事にページが多く割かれているのも、当時のタイガー人気からすれば当然かもしれませんが、改めてタイガーの人気が絶大なものだったことが分かりますね。
これでプロレスの専門誌は月に6冊出版されることになりました。